能登半島、珠洲市で災害ボランティアに先輩と2名で参加しました。珠洲市には28年前に珠洲ビーチホテルの建設現場に常駐監理をしていた経験があり、珠洲市蛸島町に私の場合で10カ月ほど、先輩は1年を超えて滞在していました。その時にお世話になった方がどうなっているか、正月から心配していたものの、時間が取れず9月になってしまいました。
ボランティアは9/21、22の予定でした。ご存じのように、豪雨災害と日程がかぶることになり、危うく我々も被災者になる可能性があった日程でした。自治体が主体となる活動は中止となり、個人的なつながりのある地元の方のお手伝いだけ行いました。
ここでは震災から9カ月の珠洲の現状と、秋以降に能登半島に出向いて何かしら力になることができないか、と考えている方に向けて参考になる情報をお伝えしたいと思います。豪雨時に撮影したため、レンズが曇っている写真が多いです。ご容赦ください。
目次
1 珠洲市蛸島町 9/21、22
2 輪島とその周辺 9/20
3 水害当日のこと 9/21、22
4 能登の道路事情
5 ボラキャン珠洲
6 珠洲ビーチホテル
7 お世話になった方々との再会
7 お世話になった方々との再会
ボランティア作業を予定していた9/21と22の両日ともに公的なボランティアができなくなった代わりに、現場常駐時にお世話になった方々と時間に余裕をもって再会する機会を得ました。
ホテルの現場が始まった頃は市内に賃貸不動産屋がなく、アパートもなかったため、市役職員に聞いて間借りをさせてくれる人を紹介してもらって、2階をお借りしていた蛸島町のお母さん。10年以上音信不通になっていたため、安否がわからず、最も気にかけていた方でした。
町を歩いていて通りがかった人に、蛸島町の人であれば保育所か小学校にある仮設住宅に入っているはずだから、訪ねてごらん、と言われて探してみたところ、同じ苗字の方を数軒訪ね、2件目でお会いすることができました。現在、89歳。お元気でした。
我々が、その日はテント泊の予定で、風呂は銭湯で入ろうと思っていたら、銭湯が休業になってしまった。と話していたら、「お風呂入ってけし」と仮設住宅でお風呂をいただくことに。お返しにぼらきゃん珠洲で調理予定だった夕飯を、キッチンをお借りして作らせてもらい、3人で食べ、懐かしい話を語らいました。
翌日には住むことができない家を設計者の目で見てほしい、というので中を見させていただきました。蛸島の我々が住んだご自宅はかろうじて倒壊していない状態。平屋部分と2階建て部分とで、40~50センチ離れができてしまっている。階段は玄関ホールの吹き抜けにかけられていたが、落下。1階の柱の傾きは大きい。1階に比べて2階は壁が多くしっかりしていた。もともと町内では大きな家。柱も梁も現在の感覚すると一回りも二回りも大きかった。耐震補強していれば持ちこたえてくれたはず、と思うと歯がゆい。一度全部を解体するしかない状態。庭にあった土蔵は完全にぺしゃんこになって、中のものに手を付けられないとのこと。訪れた数日前に解体業者の下見がやっと行われたらしい。
産業が少なく、仕事・雇用が少ないこうした地方の地域で高齢者だけが住む家は解体後、もう一度建て直すという選択肢は現実的でないだろう。ご子息が公務員であったり、住む場所を選ばない仕事をしていたりという、ある意味特殊条件でもない限り、復旧のあとの復興の姿が見えないのが現実である。「町はなくなってしまうんじゃろうか」というお母さんのつぶやきが心に痛い。
もう一人は三百苅菅工の三百苅さん。ホテルの給排水設備工事の担当でした。我々設計事務所のスタッフが現場で指示を出す工事担当者は、ほぼ年上。下手をすると親の世代。そんななか、三百苅さんはまだ我々と世代が近く、仲良くしてもらった。
今でも珠洲市内で給排水や防災設備の工事を請け負っていることをHPで知り、本社へ寄ってみた。
建物は残っていたが、半壊で使えず、近くの資材置き場に事務所を仮設して活動していらした。ご自宅も被害を受けたため、会社の鉄骨造アパートの1室に家族で住んでいるという。
三百苅さんは驚くほど元気で、先代から引き継いだ小さな旅館の敷地内に、3Dプリンタで作る住宅の日本第1号を復興住宅のモデルハウスとして建設していた。なぜ能登に?と思えるほど驚いた出来事だった。聞くところによると、初回ならではの試行錯誤の連続だったらしい。
3Dプリンタの建物は初めての見学だったが、シェルターとしては成立しているものの、施工方法や納まりはまだまだ改良の余地がありそう。できるならこの工法ならではの住まい方の提案が欲しいところだ。日曜日限定でモデルルームとして公開しているので、見学することもできるので、ぜひ体験してみてほしい。